たけさんのzakki

take0606の日記

相手を疑うのも良いが、同様に自分も疑ってみればいいと思う。いうほど皆大差ない 備忘録10/4

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ざっくり言うと

・日馬富士の暴行問題について夕刊フジが報じた

・貴ノ岩が先輩のモンゴル出身力士らを前に言い放った言葉が端緒だったという

・貴ノ岩は「あなたたちの時代ではない」と言ったそう

『藪の中』

芥川龍之介の短編小説

実など大して意味のない事なのかもしれない。

 そう思わせるほど、日本のメディアも信じられないし、モンゴル力士も信じられなければ、ファンが言う「横綱の品格」も同様に信じることもできない。

藪の中 (講談社文庫) 文庫 – 2009/8/12
芥川 龍之介 (著)

『羅生門』のタイトルで映画化

 芥川龍之介の短編小説で『藪の中』(1922)という作品がある。

 のちに黒澤明により『羅生門』のタイトルで映画化もされており、以下が、同作品により提示された事件の真相である。

激しい雨の中、荒廃した羅生門で雨宿りをする男2人に対し、木樵(映画では杣売りとされている)が語り部となって『藪の中』が語られていく。

原作では死体の第1発見者にすぎなかった木樵は、映画では事の顛末を目撃した唯一の人物となっており、その目撃談が最後に語られる。

それによれば、盗人は手込めにした武士の妻に情が移り、土下座して求婚する。しばらく泣いていた妻はやがて顔を上げ、武士の縄を切り、2人に決闘を促す(つまり、決闘に勝った方の妻となるとの意思表示)。しかし武士は、盗人の求婚を拒絶しなかった妻に愛想を尽かし、離縁を言い渡す。盗人はその武士の言動を見てためらい、考え込み、最後は武士に同調し、その場を去ろうとする。すると泣き伏せていた妻は突然笑い出し、2人のふがいなさを罵る。罵られた2人は刀を抜き、決闘を始める。しかし両人とも場慣れしておらず、無様に転げ回って闘う。辛くも盗人が優勢になり武士にとどめを刺す。しかし妻は盗人を拒み、逃げ去る。1人残された盗人も、武士を殺した恐怖心から逃げるようにその場を去った。この木樵の目撃談により、映画では「証言者は各々の保身のために嘘をついていた」という一定の結論が出されている。
引用 - Wikipedia 

羅生門 デジタル完全版
三船敏郎 (出演), 京マチ子 (出演), 黒澤明 (監督, 脚本) 

真相は『藪の中』

 真相は『藪の中』という有名な言葉の語源となった作品でもあり、この言葉を辞書で引くと、「関係者の言い分が食い違っていて、真相がわからないこと。」と説明されている。

 『羅生門』は1950年に公開されるも、日本では不評だった。が、海外では高く評価される事となる。

 ただ、何故この作品が日本では評価されず、海外で評価されたのかというところで、それは、本来、日本人は当たり前の事として持ち合わせていた価値観が由来してのことと、僕は理解している。

一神教と多神教の話

「神の視座」が遍在

 つまり、何かというと、一神教と多神教の話で、一神教の国の人々は絶対的かつ客観的現実があると認識している。それが、いわゆる「神の視座」なのだが、かれらは、絶対的に真実はひとつと思い込んでいる。が、『羅生門』という作品は違った。

 「絶対なんてないよ。真実なんて分かりっこないよ。」と問題提示されてしまったものだから、当時の時代背景もあいまって、世界中のインテリ層がこぞって見てしまったのだが、日本人にはピンとこない。

多神教の国だから

 日本は多神教の国で、あらゆるところに「神の視座」が遍在していると認識していた。だから、尚更、「絶対なんてないよ。真実なんて分かりっこないよ。」と、慎ましく謙虚な感覚を持ち合わせていたと言える。

 当然、絶対など無い、と相手と向き合えば、寛容でいられるし、相手も間違っているかもしれないが、自分も間違っているかもしれない、と考えられる。

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂 単行本 – 2018/6/15
落合陽一 (著)

多様性も寛容さも持ち合わせていた

 日本人にとっては、本来、当たり前の感覚だったはずなのだが、現代日本人が持ち合わせているようにも思えない。

 「絶対なんてないよ。真実なんて分かりっこないよ。」と慎ましく謙虚な感覚を持ち合わせていれば、そもそも、ネット上においても相手を無根拠に罵倒することも無い。

 まず、相手を疑うのも良いが、同様に自分も疑ってみれば、とも思うし、頭の出来なんて言うほど大差ない。それでも、なお自分だけ優れていると思うなら、病院で診てもらって方が良い。それは病気。

多神教優位論(たしんきょうゆういろん)とは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など『アブラハムの宗教』とよばれる一神教、もしくはその他の一神教の教えに対し、神道や観音・菩薩・明王などを信仰する北伝仏教のような多神教の優位を説く論である。

多神教優位論 - Wikipedia

一神教 - Wikipedia

多神教 - Wikipedia

やはり「神の遍在」とは日本的

全くの不寛容

ビキタスなどという言葉がある。

 宗教的な文脈での「神の遍在」をあらわすために用いらているもので、そもそも、「ユビキタス社会」などと当時、得意になって言っていた者は、現状をみてどう思うのだろうか。

自分の頭が藪の中

 どこに、「神の遍在」があるのかと思うし、現代日本人は完全に一神教的な価値観で、絶対的かつ客観的現実があると思い込み、なおかつ、それは自分が知っているとばかりに無根拠に、自分が正義と、他人を批判してはいないか。

 絶対だの客観だの何でも良いが、そんなこと言っているのも、あんたの頭の中だけの事なのだし、そんな事、無根拠にペラペラ喋る人間は、客観視はおろか、自分の頭が藪の中になっているのだろうとも思う。やはり、それは病気。

マスメディアが一神教的「神の視座」なら

 最近、こう考えるようになった。

マスメディアが吹聴するものを、一神教的「神の視座」とするならば、

ネットユーザーの視点と言うのは、多神教的「神の遍在」と理解するようにした。

 お互い、フェイクな存在でもあるのも否定しない。ただ、どちらの世界が良いかは、各々で判断するのが良いかもしれない。

とにかく良くわからない

「横綱の品格」と言ったところでそれも嘘

 元横綱朝青龍が、日馬富士の暴行問題を報じる日本のマスコミを批判した。

 朝青龍は16日、ツイッターを更新。日馬富士が酒席で貴ノ岩の頭部をビール瓶で殴打してけがを負わせたとされる報道に、「ビールびんありえない話し!!」とした上で、貴ノ岩が横綱に対して不遜な態度をとったことが殴打された原因だと報じられていることを受け、「お前らの時代終わったと口誰が出した!?」「冗談ですむか!?」と、貴ノ岩にも非があったとする立場を示し「日馬富士だけ悪とう書くマスコミに気食わない!!」(原文まま)と報道を批判した。

朝青龍「冗談ですむか」日馬富士暴行の報道に怒り - 大相撲 : 日刊スポーツ

横綱がこんなこと言っても、とにかく良くわからないし、とにかく信用できない。そして、何時もの如く「横綱の品格」問題に発展するのだろうが、それも信用しない。

 相撲の価値観とは、どうであれ「武士道」由来なのだが、「横綱の品格」を無暗に口にする者ほど「武士道」も理解していないし、理解も何も明治時代に新渡戸稲造が体系化したものが「武士道」なのだから、明治においてですら、学問のレベルになってしまっている。それを、現代人が「武士道」と言っても嘘になるし「横綱の品格」と言ったところで嘘。ただ、道徳や徳目を理解するには必要かもしれないが...

二言をするなら腹を切る

 もちろんフェイクな存在のメディアも信用ならないのだから深刻だと思う。

 「武士道」を理解し、全うするのだとしたら、二言をするなら腹を切る事ととなるが、そうすると、羅生門的に言うなら3者ともいなくなるかも知れないね。