たけさんのzakki

take0606の日記

SNS社会では一神教的な不寛容も通用しない。多様性を貴ぶ事こそ重要となるのは自明の理 備忘録10/4

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そもそも、真実なんてモノは無いと理解した方が良い。

少なくとも戦前の日本人の価値観の中にそれらは存在していた。

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映画『羅生門』

真実など無い

 真実なんてモノは分かりっこないのだし、分からないもの同士が、何を根拠に争っているのかも理解に苦しむが、お互い正しくもない不完全なモノ同士なのだから、考えを摺り寄せていくしかない。

 SNSにおいても同様で、不完全同士がフェアを貫いてこその議論とも言える。また、相手を尊重かつ、“不自由にしない程度の批判”でないと、それはヘイトと言われてもしかたない事と言える。 

正解だったとしてもヘイト

 相手を不自由にするまでの批判なら、例え、正解に限りなく近かったとしても、それは悪と言えるかもしれない。また、それはヘイトでしかない。

真相は『藪の中』

 真相は『藪の中』という有名な言葉の語源となった作品でもあり、この言葉を辞書で引くと、「関係者の言い分が食い違っていて、真相がわからないこと。」と説明されている。

 『羅生門』は1950年に公開されるも、日本では不評だった。が、海外では高く評価される事となる。ただ、何故この作品が日本では評価されず、海外で評価されたのかというところであり、それは、本来、日本人は当たり前の事として持ち合わせていた価値観が由来してのことと、僕は理解している。つまり、何かというと、一神教と多神教の話であり、一神教の国の人々は絶対的かつ客観的現実があると認識していて、いわゆる、それが「神の視座」なのだが、かれらは、絶対的に真実はひとつと思い込んでいる。が、『羅生門』という作品は違った。

 「絶対なんてないよ。真実なんて分かりっこないよ。」と問題提示されてしまったものだから、当時の時代背景もあいまって、世界中のインテリ層がこぞって見てしまったのだが、日本人にはピンとこない。それもそう。

 日本は多神教の国なのだし、あらゆるところに「神の視座」が点在していると認識していた。だから、尚更、「絶対なんてないよ。真実なんて分かりっこないよ。」と、慎ましく謙虚な感覚を持ち合わせていたと言える。

藪の中 (講談社文庫) 文庫 – 2009/8/12
芥川 龍之介 (著)

一神教と多神教

マスメディアが一神教の神

一神教 - Wikipedia

多神教 - Wikipedia

日本人は、なぜ八百万の神々を信仰するようになったのか?

多神教優位論(たしんきょうゆういろん)とは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など『アブラハムの宗教』とよばれる一神教、もしくはその他の一神教の教えに対し、神道や観音・菩薩・明王などを信仰する北伝仏教のような多神教の優位を説く論である。

多神教優位論 - Wikipedia

 マスメディアが絶対的な一神教の神なのだとしたなら、SNSにおける様々な考えに基づいた、様々な文言とは、ユビキタス的な「神の遍在」とも言える。

 日本においては八百万の神と言った神道における考え方とも合致するとも言えるから、SNSとは日本人に本質的にはマッチしやすい。 

 逆にマスメディアの一神教的な喧伝は、保守化が進めばより嫌厭されるの必然。

一神教的な不寛容も通用しない

 SNS社会では一神教的な不寛容も通用しない事にもなる。また、多様性を貴ぶ事こそ重要となるのは自明の理。

 多様な考えを理解する事こそ、寛容さなのだし、寛容である為には対象を理解すること以外にない。

 理解していないから、対象を恐れてしまう。恐れているから、悪意を向けてしまう。それは、ヘイトにもつながるし、コミュニケーションが成立するはずも無い。

 寛容である為には理解を深める以外にない、と言いきって良い。