取るに足らない事も許せない正義感は不自然に由来する!?
映画『おもひでぽろぽろ』の印象深いセリフ
主人公のタエ子と義兄の又従兄弟のトシオで交わされた印象深い会話があります。
タエ子は東京生まれの東京育ちで、田舎というものがありません。なので漠然と子どもの頃から田舎への憧れがありました。
休みを取っては姉の嫁ぎ先の実家である、山形県山形市高瀬地区に訪れていました。
印象深い2人の会話
ある日、トシオに蔵王までドライブに連れて行ってもらいますが、タエ子の思う田舎とは異なり、蔵王は開発し尽くされていました...
そこで、2人はこんな会話を交わします。
タエ子 「あああー、やっぱりこれが田舎なのね。本物の田舎。蔵王はちがう。」
トシオ 「うーん、田舎かぁ。」
タエ子 「あ、ごめんなさい、田舎、田舎って。」
トシオ 「いや、それって大事なことなんですよ。」
タエ子 「え?」
トシオ 「うん、都会の人は森や林や水の流れなんか見て、すぐ自然だ自然だってありがたがるでしょ。でも、ま山奥はともかく、田舎の景色ってやつはみんな人間が作ったものなんですよ。」
タエ子 「人間が?」
トシオ 「そう、百姓が。」
タエ子 「あの森も?」
トシオ 「そう。」
タエ子 「あの林も?」
トシオ 「そう。」
タエ子 「この小川も?」
トシオ 「そう。田んぼや畑だけじゃないんです。みんなちゃーんと歴史があってね。どこそこの曾祖父さんが植えたとか開いたとか、大昔から薪や落ち葉や茸を採っていたとか。」
タエ子 「はあ、そうっかあ。」
トシオ 「うん。人間が自然と闘ったり、自然からいろんなものをもらったりして暮らしているうちにうまいこと出来上がってきた景色なんですよ、これは。」
タエ子 「じゃ、人間がいなかったらこんな景色にならなかった。」
トシオ 「うん。百姓は絶えず自然からもらい続けなきゃ生きていかれないでしょ。だから、自然にもねずーっと生きててもらえるように、百姓のほうもいろいろやってきたんです。ま、自然と人間の共同作業っていうかな。そんなのがたぶん田舎なんですよ。」
タエ子 「そっかあ。それで懐かしいんだあ。生まれて育ったわけでもないのに、どうしてここがふるさとって気がするのか、ずーっと考えてたの。はぁ、そうだったんだ。」
自然とは太古の昔から人間の手を一切加えず、脈々と受け継ぎ残したモノの事を言う。
映画『おもいでぽろぽろ』的に言うと、上述になります。
少し遠回りしましたが、進めます。
「ネット」も「リアル」も不自然です
「ネット」とは、自然ではなく不自然
自然とは“太古の昔から脈々と受け継いだモノ”となりますので、もちろんネット上とは、自然ではありません。不自然です。
「ネット」とは、何も無いところから一から作られたモノであり、すべてが人々の手で作られたモノで、文言と言った情報や、画像や動画と言った表現物も同様と思います。
これらは“太古の昔から脈々と受け継いだモノ”では無いので不自然ですし、人の頭の中にあるモノが表現として反映されたモノが「ネット」となります。
あらゆる表現が存在します
なので、あらゆる表現が存在します。
少し思うのです。頭の中がネットに反映されるのだとして、その反映されたモノに貴賤などありますかね。
確かに、その表現物によって、人を不自由にすることは問題と思いますが、不自由にしない限り、自由に表現して良いと思いますね。
きれい事が不自由を生み出している
きれい事がネット上にも溢れかえり、不自由に感じる事があります。
頭の中がネットに反映されるのだとして、ネット上とは、すべての人間の思うところをアウトプットしたモノとも言い換えられそうですし、ゼロから人々が思うところを持ち寄り作り上げて、ここまで来ているとも言えそうです。
もちろん、不自然な世界なので、自然界で起きるようなイレギュラーが許せないと言うところなのでしょう。
「ネット」の不自然さが不寛容にさせる
既読スルーやレスポンスの遅さなど、つまらないことで不自然にイライラしてしまいます。
また、そのイライラが影響しているかは分かりませんが、人の悪いところばかり目につき、良いところを見ようともせず、批判に血道を上げていたりもします。
すべて、不自然が由来しているかもしれません。
ただ、自然とは“太古の昔から脈々と受け継いだモノ”ですし、映画『おもいでぽろぽろ』の2人の会話にもありますが、田舎ですら自然はなく、不自然になりつつあります。
イレギュラーや思い通りにならない状況を許せない不寛容さとは「ネット」または「リアル」の不自然さに由来しているかもしれませんね。