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take0606の日記

“みんな正しい”は正しくない |日本は性善説の国。お人好しな日本人が騙される

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みんな正しいは正しくない   

本は性善説の国。

 “悪いことをした人が悪い”と考える国である。日本人は、本来そう言った寛容で、穏やかなものの考え方をしていた。

 もし、日本人が“みんな正しい”と考えてしまったらどうか。

 “悪いことをした人が悪い”と考える国が日本。また、それは日本人の美しいところであり、お人好しなところ。

 “みんな正しい”とは、お人好しな日本人につけいる隙ができてしまう考え方

 と言っても良い。

 何故なら、悪いことをした人も、“みんな正しい”に含まれてしまうから。

 なので、性善説の日本では、“みんな正しくない”は正しいとなる。

 

参考記事

性善説 - Wikipedia

性悪説 - Wikipedia

原罪 - Wikipedia

 

日本は性善説の国。お人好しな日本人が騙される   

 各々が、“みんな正しくない”と考えられれば、自身の正義を疑い、相手の間違いだけを批判することに躊躇する。

 そうではなく、“みんな正しい”としてしまうと、みなが自分が正しいと、各々の正義で相手を批判し続けてしまう。

 日本は性善説の国だからこそ、“みんな正しい”としてしまうと、相手に対する批判も正しいと疑うことがなくなる。なにせ、性善説だから。

参考記事:

take0606.hateblo.jp

「神の視座」が遍在
 つまり、何かというと、一神教と多神教の話で、一神教の国の人々は絶対的かつ客観的現実があると認識している。それが、いわゆる「神の視座」なのだが、かれらは、絶対的に真実はひとつと思い込んでいる。

 が、『羅生門』という作品は違った。

 「絶対なんてないよ。真実なんて分かりっこないよ。」と問題提示されてしまったものだから、当時の時代背景もあいまって、世界中のインテリ層がこぞって見てしまったのだが、日本人にはピンとこない。

多神教の国だから
 日本は多神教の国で、あらゆるところに「神の視座」が遍在していると認識していた。だから、尚更、「絶対なんてないよ。真実なんて分かりっこないよ。」と、慎ましく謙虚な感覚を持ち合わせていたと言える。

 当然、絶対など無い、と相手と向き合えば、寛容でいられるし、相手も間違っているかもしれないが、自分も間違っているかもしれない、と考えられる。

多様性も寛容さも持ち合わせていた
 日本人にとっては、本来、当たり前の感覚だったはずなのだが、現代日本人が持ち合わせているようにも思えない。

 「絶対なんてないよ。真実なんて分かりっこないよ。」と慎ましく謙虚な感覚を持ち合わせていれば、そもそも、ネット上においても相手を無根拠に罵倒することも無い。

 まず、相手を疑うのも良いが、同様に自分も疑ってみれば、とも思うし、頭の出来なんて言うほど大差ない。それでも、なお自分だけ優れていると思うなら、病院で診てもらって方が良い。それは病気。

 

自身に対する戒めか   

 “みんな正しくない”と考えるのは、自身を戒めることのように思う。

 自身の正義を疑い、相手の批判に徹することを恥じること。ただ、悪いことをした人を憎むということ。

 性善説の国で、お人好しな日本人を相手に嘘をつく卑怯。だまそうとする卑怯。悪事を働く卑怯。

 そういった卑怯を憎むには、“みんな正しい”は正しくないと考えて行かないと、悪事を働く者の思うつぼ。

 “みんな正しい”は、性悪説の国でしか成り立たない、日本で通用させてはいけない理屈。

 それは、お人好しな日本人をだます理屈。

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take0606.hateblo.jp