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批判自体は否定しないが、同等の批判を自身に向ける。自身を疑わず恥を知らないものに成長は無い |仕組みや制度といった、モノに向けたほうが良さそう

人より、仕組みや制度といったモノに向けたほうが良さそう

 SNSでの批判、とくにtwitterでの批判は致命傷になりかねない。

 “パワーワード”といった文言もそうかも知れないが、画像などが共有されることでのダメージは計り知れない。

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批判自体は否定はしないが...

 

他者に向ける批判に正当性があるのか

 批判自体は否定はしない。それは、自身の不自由さから発生した可能性があるからだ。

 不自由さを恐れ、“不自由を脱する為の批判”を奪うべきでもない。もし、力や数を背景として、その自由を奪おうとするなら、個人的には同意できない。

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相手に向けるのと同等の批判を自身に向ける

 他者を批判するのと同等の批判を自身に向かわせなければバランスはとれない。

 ネットとリアルのバランスもそうかも知れないし、新旧メディアもそうかも知れない。

 また、いわゆる“右左”もそうかも知れないが、いかにバランスをとるかにかかっているように思う。

 そこに、安直さや出鱈目があってはバランスはとれない。

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つねに座標軸の中で他者との確認

 座標軸でつねに自分自身がどこに位置しているか確認しなければならない。

 その確認のためには、他者との関係性の中で理解するしかないし、ネットであれリアルであれ、他者との比較でしか理解はできない。

 

新旧メディアに対しても同様に言えること   

 一方向から物事を捉えようとすることの危険性位は理解したほうが良い。

 右往左往しても良いと思う。が、やはり、それも他者との関係性を確認しながら、慎重に進めなければならない。

 また、関係性の中で、そういった慎重さがある人間なら、自身を疑うこともせず、無根拠に他者の批判に徹することをしない。

 それは、恥と思うから。

 関係性の中で「批判ばかりの人間」と他者から思われることを恥じる。なので、関係性の中で、まずそうしようとしない。

座標軸 - Wikipedia

 

恥じて自分自身を疑ったほうが良い

 

他者に対する恥じでは、体裁を取り繕うだけになる。それはごまかし

 恥とは自分自身への恥。

 他者への恥だとすると、世間体や体裁を取り繕うだけの八方美人になりかねないし、形式や型ばかりに囚われる人間となってしまう。

 また、形式や型ばかりに囚われる人間は、他者に対しても同様の価値観を向けるようになってしまうから、これらの人間は、見栄えをするものを好む傾向があるようだ。

 見栄えや形式や型ばかりに囚われるからこそ、他者の良いところすら見誤り、見当違いな批判を繰り返してしまう。

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恥を知ったほうが良い

 自身に対する恥が無い、自身の欠点の自覚が無いからこそ、自分自身を疑うことを知らない。

 また、自分を疑うことを知らないから、常に他人に批判が向かう。

 自身を恥じる気持ちがあれば、他者への批判の歯止めも効くし、恥じて自身の襟を正すことができる。

 恥じて、自分自身がより良くあれるよう成長もできる。

 やはり、批判も良いが相手に向かうのと同等の批判が自身に向かわなければ上手くいかないし、成長もない。

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