タレントのりゅうちぇる(22)がタトゥーを披露して賛否を呼んでいる騒動に、芸能人からもさまざまな声があがっている。
りゅうちぇるは21日、インスタグラムのストーリーで、両肩に妻と子どもの名前を刻んだタトゥーを披露。一部から批判の声があがり、「結婚して、子供がいつかできたら、家族の名前を身体に刻もう。と結婚する前、3年前から決めてました。その3年でたくさん考えて、それなりの覚悟で入れました」と説明。「この体で、僕は大切な家族の笑顔を守るのです。なので、この体に、大切な家族の名前を刻みました。隠すつもりもありません。でも意地でも出したいわけでもありません。自然に生きていきたいです。偏見が無くなりますように」との思いをつづった。
りゅうちぇる自身に、容姿で判断されることへの反発があるように思う。
結婚もし父となるが、世間一般がイメージする夫婦像や父親像から乖離することが批判の大きな要因となっている。また、その批判の声は、主にネットユーザーが中心となっており、若年層や女性層がメインか。
りゅうちぇる、インスタに動画投稿 タトゥー公開に批判も「その覚悟でいつも行動」― スポニチ Sponichi Annex 芸能
田村淳、りゅうちぇる炎上の「タトゥー問題」に持論 「素晴らしい!」と称賛相次ぐ – しらべぇ | 気になるアレを大調査ニュース!
ロンドンブーツ1号2号 田村淳「人を見かけで判断するな」
漁師だった淳の祖父
今回はタトゥーが批判の対象となっているが、
「漁に出て沖で事故が起きて溺死した場合、水死体は誰だか判別できなくなるから刺青を入れたと話していました。仕事に対する覚悟の表れなんだと感動したのを覚えてます」
と、漁師だった自身の祖父が名字の「田村」と入れ墨をしていたと明かし
「人を見かけで判断するなと教わりますよね?タトゥーも同じだと思います」とつづり、「りゅうちぇるの件をきっかけにもう一度タトゥーについて考えてみてはいかがでしょうか?」と、うながしたそう。
容姿のような理解しやすいところでの判断を否定
淳がいう“見かけ”とは、表面上のことを指している。つまり見えているところ。一目で簡単に理解できるところ。それは、ファッションと言えるだろうし、容姿もそうか。
ただ、淳は「人を見かけで判断するな」と言っており、容姿のような理解しやすいところで判断することを否定している。また、自身の祖父が漁師をしており、その仕事に対する姿勢や覚悟に感動を覚えたと言っている。つまり、それは心のことを指ししている。
日本における刺青はファッションではなく合理性に重き
刺青は漁師としての心が反映されたもの
漁師である祖父の仕事に対する覚悟。刺青はその心が反映されたものと考えていい。
たとえば、自身が事故にあい溺死したとしても、刺青を入れることで家族が判断しやすくなり、必要以上に他人に余計な手間をかけさせないといった仕事に対する責任のことを言っている。また、職業上死と向き合いながらの作業を強いられることから、より合理性が必要となり、それを追求し反映されたさまなのだとすると、刺青が感動というところまで昇華されたのかも知れない。
りゅうちぇるのタトゥーが、淳の祖父と同様のところにあるかは別の話としても、漁師と刺青のエピソードは興味深く感じた。
肌を露わにする職業の人間は刺青を入れるのが常識
幕末から明治初期に撮影された飛脚(着色写真)。 なんば走り+極端な前傾走法ではなかったかと思うのですが謎です。この当時、肌を露わにする職業の人間は刺青を入れるのが常識で、刺青が無いと恥という社会風潮があったようです。 pic.twitter.com/JcSrxsNVdj
— 六衛府 (@yukin_done) August 12, 2016
自身の精神性の自由を追求したさま
現代はファッション
ファッションやタトゥーも精神性の自由を追求したさまだったとして、たとえば、それが、りゅうちぇる自身の内面から外へ反映されたものだったのだとすると、タトゥー批判とは、見かけのみを批判していることにとどまらない。それは、りゅうちぇる自身の心まで制約することにならないか。心を不自由にすることにならないか。批判を恐れ、制約することで心が囚われることにならないか。
心の自由を追求したさまがタトゥーなのだとすると、タトゥーを批判することは、彼自身の心を不自由にすることと同意の様に思う。
カタチばかりで心が無ければ意味がない
あまりにもカタチのことばかりを言っているようにも思う。
制服も同様にそうかも知れないし、高校野球における坊主もそうなのだろう。制服を着ているから、または坊主であるから、まじめに物事に打ち込むわけでもなければ、キッチリとした生活を送れるわけでもない。
“制服”や“坊主”も大人が望んだ「型」なだけで、そういった「型」とは、社会や国と言えるかも知れないし、家も同様にそうか。
心がなければ成り立つはずがない
「型」にはまるのが苦手だからマイノリティなのか、マイノリティだから「型」にはまるのが苦手なのかは知らない。とりあえず、その話は置いとく。
「型」はモノともいえる。そこに心があるとは思わない。形式や型ばかりに囚われることに心があるとは思わない。儀式儀礼が宗教と思うが、型ばかりにこだわるのも心がない。僕は心がない宗教は信じない。また、心がない関係性もそうか。
カタチばかりに囚われ心に重きを置くことを蔑ろにするなら、上手くいくはずもない。家や社会や国に心がなければ成り立つはずがない。人の心がなければ時間の問題で立ち行かなくなる。
人々の日々の営みから...
脳科学者の茂木健一郎氏が、タトゥーを入れている人が温泉やプールの利用を制限されることを「差別」だと批判し、「撤廃するべきだ」と訴えた。
かねてタトゥーへの偏見に反論してきた茂木氏。タレントのりゅうちぇるが家族の名前を刻み入れたタトゥーを披露して一部から批判を浴びている騒動を受け、24日更新のツイッターで再びタトゥー問題に言及した。
茂木氏は、タトゥーを入れている人が温泉やプールの利用を制限されている現状について「いわれなき差別は撤廃するべきだ。インバウンドのお客さんも増えている今、放置すれば日本の国際的恥である」と指摘。タトゥーと反社会的勢力を結びつける見方について「すべてのタトゥーの方がそういう行動に出るということは、集合論としてもちろんならない。ベン図を書けば、小学生でも理解できるだろう」と否定した。
人々の日々の営みから文化が育まれるのだとすると、「タトゥー=悪」とのイメージは、歴史の中で育まれた文化と言って良い。上述のように明治初期において職業によって刺青は当たり前のこととされてきた。ただ、現代では違う。悪とのイメージが根強い。
茂木健一郎氏に関しても、そのことを理解しつつも問題提起として、一般の理解を深めることを目的とし道化を買って出たまでと考えられる。それは、差別をできる限りなくすことと、理解を深めつつより良い社会を実現するためのこと。
批判だけで理解を拒むなら勘弁しろとも思うけど。