こころはモノではない 傘も器も壊れたら買い替えればいい、安けりゃ1000円もしない


ゲスの極み乙女。「ルミリー」(LIVE『乙女は変わる』 at NHKホール)

 

 

 そういえば、なにかある日は、必ずと言っていいほど雨だった。

 やはり、早朝覚醒。これも、慣れてしまった。いつものこと驚きもない。ただ、そうはいっても、暇になってしまうから、近くのコンビニによる。

 今日は雨が降っている。

 傘がない。そう、2つあったものを壊してしまった。

 

 壊れてひびが入った器なのだと、心を痛めていたひとがいた。自分の心は器なのだと....

 僕はこの話が好きではない。なんどか、その話しを聞かされたが好きではない。心はモノでもない。器なわけがない。ものの例えだとは思うが、話自体が好きではない。例え話であったとしても、好きな話ではない。心や文化はモノではない。

 器なのだとしたら、買い替えればいい。ただ、そんな簡単な話ではない。だから、この話をそのひとが発するたびに、腹立たしい気持ちになっていた。

 

 傘だって買い替えればいい。壊れたら買い替えたらいい。安けりゃ1000円もしない。モノとして見れば1000円程度。ただ、心はない。文化もない。

 心を器に例えることも、心はない。安けりゃ100円程度で買える。モノとして見ればそう。ただ、心はない。文化でもない。

 心ない発想そのものが、心を器に例えた行為になる。心をモノとして例えた、その行為自体に傷つき、やはり心を痛めていた。“モノじゃない”

 

 一度ひびの入った器は2度と直ることがないのだから....と心を痛めていた。

 その言葉自体に、腹立たしさをおぼえた。

 

 歩道の端に追いやられていた、壊した傘が情けない感じになっていたが、モノにしか思えなかった。そこに心はない。心ある人がそこに見る以外、心はない。モノ自体に心はない。買い替えればいい。

 人は違う。モノではない。心はモノではない。買い替えることも出来ない。

 怪我をすれば、動かしづらくなる。

 買い替えることは出来ない。腕を買い替えることも出来なければ、頭を買い替えることも出来ない。モノではないから、買い替えることは絶対に出来ない。

 モノには心はない。器にも、傘にも心はない。そこに見ているだけ。